『神との対話 Ⅰ』

ニール・ドナルド・ウォルシュ著 吉田利子訳 サンマーク文庫 2002年出版

中国語オリジナル

   

        人々「死」を語るのが、常に嫌であって、または怖いで もあります。希望や躍動が溢れる「生」から見て、「死」は常に陰湿的、絶望的、不吉、または永遠なる消失 、したがって、完全に不可知、不可測な世界を意味するで もあるのです。

         それでも、 人は誰一人例外なく、最終的には「死」と向かい合わざるを得ないので、人は更なる矛盾や恐怖を心の中に持つのです。すなわち、上述したように、積極的に「死」の到来やその意味したところと向かい合おうとしたくない一方、「死後の世界」は一体どういうものだ、と急き立てても分かろうともしているのです。とは言っても、何千年前、いや、何万年前から、その「死後の世界」は一体どうなっているかと私たちに信服させ、また証拠立てることのできる立派な学説や論理は一つもありません。こうしたなか、つまり、「死」に対する恐怖、無力感、それから、理解 ができないなかで、でありながら、その到来を迎えざるを得ない状況の中で、科学の専門家たちはあらゆる方法を使い、新しい医学や技術を研究して、人の寿命を伸ばそうと没頭する一方、一般の人々も様々な宗教の力を借りて、心の落ち着きを求め、またはその少しも知ることのできない死後の世界 に対する恐怖を、ちょっとだけでも軽減しようと努めている 次第。宗教、この人類の歴史が始まった同時に、 すでに現れた強大な存在やその象徴は一度も歴史の流れの中で欠席したことがありません。確かに、その不可知の運命の到来――特に「死」に対して、「宗教」はそれなりの力を発揮してくれたのです。でも、 ちょうど上述した科学の専門家が未だに人類の寿命を延命できるような決定的な手立てを発見できていないと同じように、この世に、一つでも「死後の世界」は一体どうなっているのか、と証明できる宗教もどこにあるでしょうか、 また、「死」とは一体どういうものだ、と教えてくれた宗教もまだどこにありましょうか…

        孔子曰く:「未だ生を知らずして、いずくんぞ死を知らんや」 、また「子怪力乱神を語らず」とも…。このように、儒教2000年余りの影響を受けていて、特にわが国の人民は「死」を語ろうとしません。この辺の話題や議論、いや、ちょっとだけでも言い触れようとしたさえ、 我が国民はその各種の集いの中では、しませんーー意識的 にも、また意識的でなくても…。だからと言って、「死」に対して、人々は恐れない、もしくは、すでに悟ったのか、とも意味はしないのです。それどころか、欧米諸国に比べ、「死」の持つ意味とそれが人に与えた感受は、台湾は勝るとも劣らないのです。これは、各地にあるお寺に対する支持者たちの寄付金のその額 や、そのお寺に対する擁護の熱烈さ、それから、お祭り季節に現れた彼らの熱狂 ぶりなどを見れば、分かるのです。これに対して、孔子の語った、「未だ生を知らずして、いずくんぞ死を知らんや」の如く、儒家が「死」に向かい合おうとしないばかりか、 その「生」に対する理解もどうも、限られていたように思います。

 

 

物事は常に両面の性格性を持っています。つまり、その片方を体験しなければ、もう一つの面の持つ意味や属性を理解するのも難しいと言えましょう。たとえば、「白昼」がなければ、 我々はどうやって「夜」の意義を付け、また理解しようというのか?同じく、「善良」が存在しなければ、どのように「邪悪」を理解する?「黒」がなければ、「白」は何?…これらと同じように、「生」の意味が分からなければ、どうして、「死」を説明 できるのか?その逆も言えるのです。つまり、「死」が分からないなら、どうやって、「生」 を意義付ける?それから、「命」、「存在」はどうしたことなのかと…。実は、このような様々な設問を突き止めていくと、あなた、そして私はなんで、この世界にやってきたのか、 それから、この世界にやって来たことの意味 はなんですか、果てに、私たちは一体何なんだろうか、というまでに…

        これらの意味を手探りしていくと、この2000年の間、吾が国民 にずっと影響し続けてきたその儒家の思想、つまり、「未だ生を知らずして、いずくんぞ死を知らんや」と「子怪力乱神を語らず」 、の持つその論理性は果たして的確なのか否か、はもう一度考えなければならないかもしれません…

  

 

 

『神との対話』はアメリカ人ニール・ドナルド・ウォルシュが1990年代に書いたもの、全部三冊です。その中の一冊目――『神との対話 Ⅰ』は、かなり考えさせるものがあると思います…。内容を大雑把に言えば、それは、生活も事業も両面が共にどん底に落とされていたあるアメリカ人、つまり、作者本人のニールが今度も何もかもやけくそになったので、 その独特な彼のアタリ方をまたもや使い出したーー用は、自分の不平不満を手紙の上に満足の行くまで書き尽くすのです。 言うまでもなく、これらの手紙は一度も出されていません。そして、今度、彼がアタッタ相手は、「そのもっとも人を馬鹿にし、 弄んでる」と、彼が考えたモノである、「神様」でした!

またも今度やその憤懣と怨恨のくだりを満足の行くまで書き下ろしたニールはそして、いつものように、ペンを下ろそうとした際、「…私の手はそのまま紙の上に懸けられていて、何か見えないものに取り付かれているみたい!そして、突然、ペンは自ら動き出して…、私は心に決めて、その動かし次第に何か書き下ろそうとしたのです…」、そして、その書かされた文はなんと、「あなたは本当に物事の答えを知ろうとしているか、それとも、ただのアタリ?」――どうも、神様からの言い返しみたいだ!驚いた一方、実はこの時点から、ニールはこの「神様」と5年近い紙とペンを通じた会話を、した!上述した一冊目は、 実は彼らの一年目の会話 の内容でした!

        この一冊目に、ニールは多く自分を困惑させた質問をしました。自分と周囲の人間関係、 またどうやって、もっと多く稼 ぐことができるのかを始め、世界的な災難の発生、引いては宇宙の形成経過までと。彼の発した質問に対して、「神様」は一々と丁寧に答えることにしたーー宇宙の始まりと世界の形成・万物の生成から、人々はどうしてこの世に生を受けたのか、来た目的 何か、と。それから、人間は何で「死」と向かい合わざるを得ないのか、 一歩進んで、死後の世界は何か、いわゆる死後の「報い」というのがあろうか、 そして、果てに、「神」は何だろうかに対して、「人 間」はまた何なんだろうか、と、いろいろな質問と答えの攻防でした。これらニールの質問に対して、「神様」は実に精彩かつ人々に考えさせるような答えをした のです。またその答え方に際して、「神様」は実に簡潔かつ明晰な、と同時にユーモア交えながらの言い方をしてくれたため、文の全体としてはとても読みやすく、いわゆる、一般経典のような、読みづらい、または説教振りの感じは殆どしません。どうも、私(Sir Chenです^^)の経験の中では、宗教関連の書籍 にこのような読みやすい、かつその言ったところの真髄を直に読者側に伝え、感動を与えることのできるものは恐らく、なかろう…

と同時に、一つ言わなければならないのは、この『神との対話』(二冊目と三冊目も含む) というシリーズの中で語られた「神」とその引用したところは、キリスト教 での神とその経典のバイブルーとよく似ています。 でありながら、本のあちこちにそれらに真っ向から逆したところもたくさん見受けられ、ひどいところに至ると、クリスチャンに耐え難いような叙述までが散見されています。 それは、あたかも作者ニールの言ったように、当の本はキリスト教にとっては「冒瀆」 のものかもしれません…。ただし、 このような内容があるだけに、読者側から見ては、またもこの本も俗の宗教的なヤツじゃないか、という先入観を与えずに済むのです。だからと言って、 『神との対話』は「新興宗教」の範疇に入るのか、それともただのフィクション小説なのか、はまだ論議するところも残っているしょう。いずれにせよ、その提起したところはあまりにも人々に考えさせ、衝撃を与え、 また反省させるので、「新興宗教」的なものか、それともフィクション小説なのかはもう、論議する必要もなくな るかもしれないのです…

  

 

 

 

人間の本質は一体何ですか?孟子の言われた「善」、それとも荀子の言われた「悪」なのですか…

 

われわれは何のために、この世にやって来たのか。それは仏教の諭した「苦を受けるため」、それとも汲々と功名を営むのか…

 

どうして、「生活する意義は人類全体の生活の向上にあり、生命の意義は宇宙が継起した生命を創造するにある」というのですか…

 

人間同士はどうして殺し合わなければならないのか。古今東西、どうして戦争だけは避けられないのか。災害や動乱はどうして後を絶たないの?それは、「天地仁なし、万物を以って芻狗(すうく)と為す」と一言だけで、片付けられるのか。

 

死後の世界はどうなっている?ただ菊の一束しか残ってない、それとも仏教の主張した「輪廻再生」、もしくはキリスト教の言った「最後の審判を仰ぐ」?

 

「人間」って何?「神」はまた何を意味しているのか?二者の間に関係はありますか?

 

宗教の本質は何ですか。

 

世界と宇宙には果てがあるのだろうか。

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以上様々な質問に対して、『神との対話 の中で、その答えが見つけられるかもしれません!